『ラルフ…また会えるよね』
そう言った彼女の陽炎が、掻き消えた。彼女の笑顔と共に―…
………………………
俺は芦谷 昴。
エンジェルとして、この地に生まれ落とされた。
今は普通の高校生として暮らしている。
「昴、あなた朝のホームルームの司会でしょう?早く進めて」
そう言ったのは、クラス委員長の天海 零。彼女もエンジェル。
エンジェルの中では格が高く、あちらの世界では『冷酷の狩人』と呼ばれている。
また、新しい王の下では第一配下として天堂騎士であったとか。
俺のような平民とは全く違う世界にいたのだろう。
「あー、わかった」
俺が前に出ると、クラスは一気に静まり返った。自慢ではないけど、こう見えて結構モテる方だ。
…と、
ズシッ
「なっ…!?」
「昴!」
不意に、今まで感じたことのない、大きな"気"が背中にのしかかった。零も感じ取ったらしい。
しかし、振り返った目線の先には、金髪の映える髪を2つにくくった美しい少女と、同じ髪色の爽やかな青年が立っていた。
零はすぐに時間を止める呪文を唱え、戦闘の構えをとる。
「お前ら…何者だ?」
「このクラスの転校生よ」
少女は俺の前に立ち、オレンジゴールドの大きな瞳を瞬いた。
「ふざけないで。死にたいの?」
「天音…どうする?」
「浜崎、相手はエンジェルよ」
その時、開けっ放しだった教室のドアから誰かが入ってきた。
「ごめんよっっ遅れてしまったよっっ」
間抜けな声を挙げながら入ってきたのは深い緑の髪色をした、隣のクラスの男子だった。
「錬!どうしてあなたは…」
実は錬こと、赤井 錬もエンジェルだ。しかも、新しい王の第三配下である。
「天音、なんか…」
「大丈夫そう?だよね」
時間を止まらせていた術を解こうとした2人を見て、昴は零に一喝する。
「零!あいつら逃げるぞ!」
「わかってるわよっ!」
すぐさま陣を描き始めた。
「ステラス・キルクルス・ルーメン・スタビレム!」
零の描いた魔法陣は発光して、"天音"と"浜崎"に当たり、封印する、
はずだった。
「…なっ!!?」
魔法陣は2人に当たる前に、消え失せてしまっていたのだ。
息を呑む昴達。
「さぁ、朝のホームルームを始めましょ」
"天音"はそう言い、時間を止めていた術を解除した。
-そう、ただの魔法陣を破るなど、少し強い魔物でもできる業。
ただ、この時あの2人は、指一本でその業をやってのけた。しかも、たった一人の指で。
そしてこれが俺と2人の出会いだった。
………………………
「浜崎 竜彦と椎名 天音、ね」
「なんか聞いたことあるわ」
放課後の屋上。
爽やかな春の陽気が、さんさんと降り注いでいる。
3人でここに集まる為に、昴達は大変な努力を要した。それは、とりまきを破ることだった。
昴は自他共に認める、イケメンである。錬もそうだし、零だって赤髪のセミロングの髪の毛がより一層、彼女の整った顔を引き立たせている。
「あいつら、エンジェルなのかな?だとすれば、なんでここに」
錬の言う通りだった。あの2人がエンジェルだというのはまだ分かる。だけど、そうすると他の地域のエンジェルのはずだ。
エンジェルが他の地域に行くことは普通、まずない。
「それにしても、あの"気"はなんなんだ?第一配下の零でさえ、あいつらには及ばない」
「そうなのよね…」
魔物だとすれば、ブラックリストに載っていなければおかしい。
あれからブラックリストを隅々まで調べたが、全然見当たらなかった。
「あなた達はエンジェルとして、相当の腕を持ってるのね」
―この声!
後ろを振り向くと、椎名と浜崎がいつの間にかそこにいた。
「いつからそこに!?」
「結構前からいたんだけどね」
「えぇ」
そう、今のあの2人はなぜか例の"気"が感じられない。
一体どんな術を使って―…
「術なんて使ってないわ。ただ"気"を調節しただけ」
「なっ!」
考えを読み取った!?
そんな高度な業は、前世の姿に戻らないと出来ないはず。それをこの姿でやってのけるとは…
「あなた、何者なの?ただ者ではないわね。」
「天音、」
「浜崎…どうする?」
「口止めだけしておけば、大丈夫だと思うよ。でも天音が」
すると、椎名は昴達の目の前に立った。
「インスペリオ」
椎名のかざした手から、光が唐突に溢れだした。視界が暗転し、気がつくと、地面にびっしりと魔法陣が張り巡らされていた。
「汝、我と契約を望むか?」
これは、契約の儀式…!?
エンジェルとの契約を破れば、まず死刑にされるか、あるいは堕天の烙印を押されることだろう。
だが、今この契約をすれば、椎名と浜崎を封印する隙が出来るかも知れない。
一か八かの賭けだ。
「望もう」
昴の言葉に2人ははっとした。
「昴!?あなた何言って―」
「今は俺の好きにさせてくれ」
そう言うと、昴は契約相手―椎名の前に立つ。契約が終われば、2人の非難は嵐のように自分に降りかかってくるだろう、と考えながら。
「契約成立」
椎名が言うと、辺りはまた暗転し、元の学校の屋上に戻った。
「お前にその紋様がある限り、今契約したことは実行される」
浜崎の指差した先を見ると、ちょうど左腕の肘辺りに黒い羽根のようなしみがあった。
「なるほどね。で、そっちの条件は何なんだ?俺は椎名と浜崎、お前らの正体が知りたい。」
「浜崎、私が言うわ」
「わかりました」
敬語…?
「あなた達も私の、否、私達の前世の名前を知ってるはずよ」
「なんですって?」
零が身を乗り出すと同時に、
キィン…!
と、金属音が響いた。
「零!!」
錬の声の方を向くと、錬の隣にいたはずの零が…凍りついていた。
「動くな。これは芦谷昂との契約だ。契約者以外の人間は、これに踏み入れることは出来ない」
「…わかった。僕もそんな馬鹿じゃない。大人しくするよ」
錬はその場に座り、それと同時に浜崎の錬に向けていた左腕を下ろした。
椎名は、美しい赤髪を揺らしながら言った。
「私の前世の名前は…エチェ」
「エチェだと!?あの、旧王の娘であると…!」
「そうよ。そして浜崎の前世の名前は」
「イェルカだ」
昴の心に大きな衝撃が走った。
浜崎の前世の名など、もう彼の耳には入っていなかった。エチェが堕天であることも、また同様。
そして、とうに癒えたはずの心の古傷が疼き始める。
「…俺の前世の名はラルフ」
昴はエチェを睨みつけ言った。
「そして、ドリューの婚約者だった男だ」
エチェとイェルカは目を見開き、息を呑んだ。
それはまだ、ラルフが人間界にエンジェルとして送り出される前の、8歳の頃の話であった。
「ラルフっ」
向こうから、ラルフに向かって走ってくる少女の姿が見えた。
「ドリュー!おはよう」
「おはよう。あのね、私ね、ラルフに報告することがあるの」
大きな目を輝かせながら、ドリューは無邪気に言った。
「私ね、お城に行くんだよ!」
「お城に?」
「うん!あと3年したらね」
「何しに行くの?お城行けるのって、王様にいいよって言われた人だけなんだよ?」
「私はね、王様に来てって言われたんだ」
「なんで?」
「お姫様の相手をするんだって。お城って中はどうなっているのかなぁ」
「うん」
ドリューが楽しそうに話しているのを見ながら、ラルフは何故だか寂しい気持ちになった。
ドリューはラルフの隣の家に住む、いわば幼なじみだった。
隣の家といってもドリューの家はラルフより格が上で、それは比べものにならないほどだった。
でも親も子もお互いとても仲が良く、エンジェルの中では異例中の異例だった。
ラルフはそんなドリューが大好きだった。
しかしこの良い関係が崩れ始めたのは、ドリューが城へ行く1ヶ月前のことである。
「ドリュー、その…城へ行って、寂しいと思わないの?」
「な、何いきなり」
天堂騎士学校の帰り、偶然ドリューと出会った。
「いや…あと1ヶ月しかこっちで過ごせる時間がないだろ?寂しくないのかな~って思って」
「別に。寂しいなんて思ってたら、いつまでたっても行けないじゃない」
「そっか。俺は…寂しい」
「え、」
家の前で2人は立ち止まった。
俺は既に、"決意"していた。言うなら今しかない、と。
「いつも、家柄なんて気にしないで遊べたのはドリューだけなんだよ」
「私だって、そうよ」
「だから…俺は、ドリューのことが好きなんだ。誰よりも、ずっと」
ドリューの顔は、前髪に隠れて見ることはできなかった。
「こんなこと言いたくないけど、俺はドリューに行って欲しくない。離れ離れなんて嫌だ。」
「…っ」
「ドリュー」
ラルフはドリューの腕をつかんだ。しかし、ドリューはそれを振り払った。
「やめて!」
「行かないでくれ」
ぱぁんッ!
「ラルフが…、ラルフがそんな人だとは思わなかったわ。私は自分の夢を叶える為に城へ行くの。だから、あなたと離れるなんて何とも思わないわ」
「ドリュー…」
叩かれた手がじんじんと痛んだ。それしか感じなかった。
ドリューは冷たい目でラルフを見ていた。
他人を見るような、そんな目で。
「もう、ラルフには会いたくないわ」
そう言い残して、ドリューは自分の家へと入っていった。
ラルフはしばらくその場でただ、呆然とするしかなかった。
それから2人はまた会った時は他人としてお互いに接した。しかし、ラルフにとって、その時間はもちろん苦痛でしかなかった。
そして、ドリューが城へ行く前日になった。
ドリューとの仲を回復出来ないまま、時間は過ぎていった。
「ラルフ、今日はドリューちゃんが城へ行く日でしょう?送らなくていいの?」
ラルフは部屋に来た母を見た。
「母さん、いいんだ。ほっといて」
「全く…行く時間だけ教えておくわ。今日の午後2時よ」
「わかった」
母は部屋から出ていった。
午後2時…後1時間で、ドリューはこの町からいなくなる。
もう、二度と会えないだろう。
もう二度と…?
だったら、
「…最後だけなら、いいよな」
ラルフはベッドから起き上がって言った。
………………………
「お母さん、私、城で頑張ってくるからね」
昼ご飯を食べ終わったテーブルを愛おしく拭きながら、ドリューは言った。
「もちろん。ちゃんと姫様が退屈しないようになさいよ」
「うん」
ふと、皿を拭いていた母の手が止まった。
「あなた、ラルフくんに挨拶してこなくていいの?」
「別に…もう最近話してないし、きっと嫌われたから」
でも…と今になってラルフをわざと突き放したことを後悔する。
本当は、そう言われた時、本当に嬉しかった。自分もラルフとずっといたかった。
だから…だから離れて寂しくならないように、わざと突き放した。
未練が残ってはいけないのだ。
もう、会えないから。
そんなものが残っていては、姫様に失礼極まりなさすぎなのだ。
でも。
やっぱり心は裏切れなかった。
ドリューはラルフの下へ走っていった。
別れを告げる為に。
「ドリュー!」
「ラルフ…っ!」
家の前で交錯した2人は、自然とお互いを抱きしめあっていた。
まるでお互いの気持ちを確かめ合うように。
「ラルフ、ごめん、ごめんね」
「どうして?」
「本当は私、ラルフとずっと一緒にいたかったの。ラルフに好きだって言われた時、すごく嬉しかったの」
「え…?」
「でもそれからラルフといたら、絶対城へ行けなくなると思ってわざと突き放したの」
ドリューは泣きながら言った。
ラルフは心から思った。
初めて好きになったひとが、ドリューで良かった、と。
「ドリュー…泣かないで。ドリューは結局俺にこうして会いに来てくれた。だから、もう謝らなくていいんだ」
「ラルフ…ありがとう」
優しくはにかんでドリューは言った。
今までで一番、かわいくてきれいな笑顔だった。
そして2人は運命の糸に引かれたように互いの顔を寄せ合い―…
キスをした。
唇と唇の、交錯。
「ラルフ…また会えるよね」
「ドリュー、いつかまた会えたら結婚しような」
「うん…!絶対だよ」
それから、ドリューはこの町を去っていった。
寂しい気持ちはあったけれど、それでもドリューの為に笑って見送った。
『私にとって、失っては生きていけない人はラルフだけよ』
ドリューが別れ際に、微笑みながらラルフに囁いた言葉は、大切にラルフの心の奥底にしまってある。
ドリューとのキスの記憶と共に―…
……………………
それから一年が経った。
その間城の結界によってテレパシーを使うことも出来ず、ドリューと連絡できることはなかった。
なのに、その日は違った。
ラルフが天堂騎士学校の帰り道を歩いていた時だった。
ふと、顔を上げた時…
「っドリュー!?」
前の方に、赤髪をドリューのように2つにくくった女の子が見えたのだ。
その女の子はラルフの呼びかけに気づいたのか、振り返って―
消え失せた。
「な…」
見間違い…?
そんなはずはないと思った時、
不意にラルフの背中に悪寒が走った。
反射的にラルフは後ろを振り返ったが、そこには何もなかった。
―助けて…―
頭に響いたその声は、間違いなくドリューのものだった。
「ドリューが、危ない…!?」
気がついたら、ラルフは城へ向かって飛んでいた。
城までは、ずっと飛び続けても1日はかかるのに。
「無事だよな、ドリュー…!」
ラルフの声は、虚空に虚しく響いた。
そして飛ぶこと長らく。
ラルフに知らせが入った。
―ラルフ!
「母さん!?」
―今どこいるの?早く帰って来なさい!!
「どうして!?ドリューが…」
―城の結界が破れたのよ!!
「なっ…!?」
ラルフの全身に衝撃が走る。
城の結界が破れる、それは王が死んだこと、魔物が自由に城を行き来できるようになったことを意味する。
ドリューが城にいるのならいつ殺されてもおかしくはなかった。
「…っ、ドリュー!!」
ラルフは叫び続けた。
「ドリュー!!」
ずっと、返事が返って来るのを求めて。
「ドリュー!!!」
結局、ドリューの声が返ってくることはなかった。
その後、一週間経ってからようやくあの日の城の情報が入ってきたのだった。
それは悲惨なものだった。
姫とドリューを含め、子供3人がいた部屋に魔物が侵入した。
魔物は姫の強大な魔力と術により鎮圧。しかしそれは一人の犠牲者を出した。
それがドリューだった。
「俺にとって、失ってはいけないものはドリューだけだ…っ」
―次会った時は結婚しようって、約束したのに…
その"次"は、もう永遠にない。
ラルフは深い悲しみに暮れた。
しかし、いつしか悲しみは憎しみへと変わっていった。
新しい王が即位したことにも、ラルフは興味を示さなかった。
新しい王が特別な術を用い、エンジェル全てへテレパシーでスピーチしても、内容はほとんど筒抜けだった。でも、姫に関する話になると、ラルフは食い入るように耳をそばだてた。
『あの結界が破れた日、姫は1人の幼き命を奪ったのです』
ドリューだとラルフは思った。
『その後、姫は何事もなかったように日々暮らしていました。友の命を奪ったというのに…!!』
語調がだんだん荒くなる。
それと同時に、ラルフの心の中にも、怒りがふつふつと湧いていった。
『姫はそれほどまでに傲慢かつ自己中心な、この国の姫に値することの全くない未熟エンジェルなのです!!』
「未熟エンジェル…」
『そして私はそれをこの国の地下に縛り付け、監視することに決心しました。即ち、彼女に堕天の烙印を刻むことを!!』
そしてそれは、その日の真夜中に実行された。
全てのエンジェルが、そのことに歓喜した。
「新王よ!神よ!!」
そんな言葉が国中に溢れだしたのだった。
ラルフは新王に忠誠を誓った。
天堂騎士として、そして姫へ憎しみを持つ者として。
そして、もはや神と等しい新王からの使命を果たすため、人間界にやって来たのだった。
「俺は…お前らを殺したいほど憎かった」
ラルフは戦闘の構えをとった。
「…」
エチェとイェルカは動かなかった。
「俺の失ってはいけない、唯一の宝はドリューだったのに…!」
「…!」
ラルフは魔法陣を飛ばした。
だが、当たるはずだったエチェは少し体を避けるように動かしただけで、いとも簡単に魔法陣を防いだのだった。
「なんだよ!?本気で来いよ!!」
「本気でそう言ってるのか?」
「当たり前だ…っ!?」
突如、ラルフの足元に大樹が生えた。
「昴…っ!!」
錬が叫んだ。
そしてそれは、ラルフに巻きついてラルフの動きを封じた。
「いいか?お前はエチェ姫様の何を知っているというのか」
「その冷酷非情な残酷さだ」
「情報を信じるというのか」
「じゃあ正しい情報って何なんだ?姫は優しくて誰一人差別しませんってか?…馬鹿馬鹿しい。少なくとも、ドリューを殺した奴にそんなこと言われる筋合いはないはずだ」
「セレス」
身体の自由が、効かなくなる。
「っ!」
「やめろ…!!昴が!」
「黙ってろ!お前も縛られたいのか!?」
締めつける力が強くなる。
イェルカの目には、鋭い光があった。
「お前にエチェ姫の何が分かるというんだ…!!」
「イェルカ、止めて!私はそんなこと望んでない!もう誰も、私のせいで死ぬことは…」
「今更、何言ってんだ…お前はドリューを殺した!その事実は変わらない!」
「…ごめんなさい」
「は…?」
「エチェ姫様…?」
唐突に、エチェは言った。
イェルカとラルフ、錬のその場にいた全員が目を瞠った。
「本当に…あなたはドリューのことを愛していたのね…」
「いきなり何を…エチェ姫様」
「わからないの?イェルカは私を精一杯愛し、守ろうと努力するでしょう。失っては生きていけないぐらい。このラルフにとって、その人はドリューだったのよ」
「エチェ、姫…?お前…」
「そのドリューを、命を、私は奪ったのよ?憎まれて当然よ」
そしてエチェは、ラルフに申し訳なさそうに笑った。
イェルカは不満気な顔をした。
「だから、彼を離して」
「…はい」
体に巻きついていた大樹が消え、ラルフは自由に動けるようになった。
「いいのかよ?俺を自由にして。エチェ姫を殺すかも知れないんだぜ?」
「エチェ姫様の命令だ」
「ラルフ。私はあなたにどう思われても構わない。…だけど、これだけはわかって欲しい。ドリューを巻き込まなければ、私達が危なかったの。」
「自分のことしか考えなかったわけか」
「お前…!!」
イェルカは逆上していた。
「結果的には、そういうことになるわ…。あの時、私はせめてドリューを自分のシールドに入れようとした。でも、ドリューは私から離れてしまった…」
「どうして!?」
「魔物は『エチェ』がドリューか私かわからなかったのよ。だから、皆殺しにしようとした」
「そんな…」
「だから、ドリューを守りたかったけど…結局、巻き込むしか逃げ道はなかったのよ」
この時、初めて気づいた。
エチェ姫の頬に、雫が流れていることに…
「お前…なんで泣く…」
「本当に、自分がドリューを殺したんだと思うと…ねぇ、イェルカ。私はどうしてドリューを殺してしまったのかしら?そうやって自分を正当化して、実は偽善者なのよ」
「エチェ姫、様…?」
エチェ姫の様子が突然おかしくなった。
「私、何人人を殺したのかしら?もう数え切れないわよね」
「零!!」
錬の叫びを聞き、凍りついた零の方を顧みる。
パリー…ン
と、大きな音を立てて、零の氷が砕け散った。
零はそのまま崩れ落ちた。
すぐ錬が駆けつけ、零が意識を失っていることを確認する。
「エチェ姫様!?どうしたのですか!!」
「イェルカ」
イェルカの方を向いたエチェは、厳しい顔をしていた。
「やっぱり、私は…私はこの世界に来るとき、自分に誓ったわ。もう誰ひとり傷つけないって」
「…?」
「だからもう、その火種になるようなことはしたくないの」
そしてエチェはラルフの方を向いて言った。
「この話は、これで終わりにしましょう」
それからエチェは、聖母のごとく微笑んだ。昴は何も言えなかった。
その夜。
昴、錬、そして零は、近所の公園で椎名と浜崎のことについて話していた。
「俺、あいつはドリューを殺したことに変わりはないし、今でも憎いけど、そんな悪い奴じゃないかも知れない」
ブランコに座ったまま、目の前の柵に座った零に話しかけた。
「そうかしら?私は向こうの世界での噂しか知らないし…それに、あの時は凍らされていたから、なんとも言えないわ」
すると、隣りのブランコにいた錬が言った。
「僕も。椎名…いや、エチェ姫は噂でこそ悪名高かったけど、実際はむしろ逆だと思ったなぁ」
と言って笑った。
「あいつは…本当に普通の生活をしたかっただけかも知れない」
「でも何かを欲するだけで、何かを犠牲にしなくてはならなかったのね―…」
空気がしんみりとなる。
昴は思った。
もしかしたら、一番辛い思いをしているのはエチェ姫かも知れない。
自分はエチェ姫よりも満足した生活を送れているかも知れない。
そう考えると、いたたまれない気持ちになった。
「それはそうと零、エチェ姫って…堕天、だよね」
「えぇ…本当なら狩るところなんだけど…」
「あいつらも、仲間がいたはずだよな?でも今無傷でここにいるってことは…」
「その仲間が逃がしたってことになるわよね」
普通なら、それは犯してはならない禁忌のはず。
堕天を見逃すなど、あってはならない。そして、それは自分達にも当然当てはまる。
「でもさ…俺、思うんだ」
「昴…?」
満天の星空を見上げて言った。
「エチェ姫は、ただ純粋に何事もない、平穏な生活がしたいだけなんだ。俺らみたいな。それは、望んじゃいけないことなのか?」
「昴…もしかしてエチェ姫を見逃そうってわけじゃないよね?」
「どういうことなの?」
「俺だってそんなことは分かってるさ。でもさ、やっぱりおかしいと思うんだよ。堕天の刻印だって新王に無理やり押されたようなもんじゃないか」
昴はどうしても引けなかった。
今では、エチェに抱いていた憎しみなんてなかった。そして、いつしかエチェとイェルカを守りたいとまで思っていた。
それが犯してはならない禁忌だとしても―…
「―ルフ、ラルフっ」
この声―…どっかで…
「もしかして、ドリュー!?」
「ラルフっ!!会いたかったよ」
白い空間から、突然ドリューが飛び出して来た。
「ドリュー、ドリューっ…!!」
ラルフはドリューを引き寄せ、強く強く抱きしめた。
ドリューがなぜここにいるのか分からなかったけど、そんなことはどうでも良かった。
ただただ、ドリューにまた、再び会えたことが嬉しかった。
「ラルフ、もうエチェ姫様を憎んだりしてない?」
「え?」
唐突すぎる質問に、一瞬思考が停止する。
「もし憎んでるのなら、それは間違ってるわ。…私がいけないんだから」
「俺、一時は本当にエチェ姫を許せなかった。でも、今日エチェ姫からいろんな話を聞いて、それは間違ってるって気付いたよ」
そう言うと、ドリューはにこっと笑った。
「それなら大丈夫。それと、エチェ姫とイェルカは封印しないであげて欲しいの」
「どうして?」
「エチェ姫様は、イェルカとの愛を守る為に、わざわざ牢を抜け出してこの世界に来たのよ?他には何も望まず…ただ、平穏な暮らしを求めて」
それは、ラルフが夜考えていたことと同じだった。
「…だよな」
ラルフはドリューに微笑んだ。
すると、ドリューは何故か寂しげな顔をした。
「ごめんね。もうそろそろお別れしなきゃ」
「…え、」
「私の用はそれを伝えること、―それとラルフに会うことだもの。もう、用は終わったわ」
「ま、待てよ」
向こうを向いていたドリューは振り向いた。
その顔は晴れやかな笑顔をしていた。
「…さよなら。また、会える日が来ることを願って」
そしてラルフに近づき、
「大好きだよ」
…と、
口づけをした。
「ドリュー…」
ドリューがキスした唇を守るようにそっと手をあて、去って行く影をずっと見ていた。
そして、再び会えることを祈り続けた。
…………………………
次の日。
朝起きると、ようやくドリューに会えたことが夢であることに気付いた。
また会えるといいなぁと思いながら登校していると、不意に前に零がいることに気がついた。
「おはよう、昴」
「あぁ。何の用だ?いつもなら学校で待機しているだろ?」
「錬には昨日、メールで話したんだけど…今日、エチェ姫とイェルカを封印するわよ」
「え、ちょっと待てよ」
「反対するなら来なきゃいいでしょ。…じゃ」
それだけ言って、零は颯爽と行ってしまった。
―
どうしよう…
このままでは、2人が封印されてしまう。ドリューに言われて、昨日決心したではないか。
「くそ…っ」
こうなると自分で解決策を探すしかない。
……………………
「椎名さん、浜崎くん」
「…何?」
教室に着くと、既に零は2人を誘い出していた。
「今日の放課後、ちょっといいかしら。話したいことがあるの」
「天音、どうする?」
「…いいわ。屋上でしょう?」
「えぇ。じゃあ、その時に」
話が終わり、零がその場を離れたのを見て、昴は浜崎のもとへ駆け寄った。
「本当に、いいのか?」
「…何が」
「分かってんだろ?お前も含めて、エチェ姫も封印されるかも知れないんだぞ」
「そんなこと承知の上だ。それに、エチェ姫の"気"を侮っているお前らの方が大丈夫なのか?」
「たぶん、侮ってる訳じゃない。それに…いや、なんでもない」
「…わかった。じゃ」
浜崎は、自分の席に戻った。
確かにエチェ姫とイェルカの力は強大だろう。
でも、不安げな気持ちは消えなかった。
と、昴の肩を誰かが叩く。
「掟…破らないよね?」
「…!」
錬が今までにない真剣な顔で聞いてきた。
昴は何も言えずに、その場を離れた。
そして、その時は来た。
屋上にいるのは、昴、零、錬、それから向かい合う椎名と浜崎。
晴れやかな空とは裏腹に、5人の間には緊張感が漂っていた。
「まず、単刀直入に言うわ。あなた方を呼び出したのは、あなた方を封印するため」
反応はなかった。
まだ昴が動くところではない。
「大人しく封印されてくれると、こちらとしてもありがたいのだけど…」
「そんなことしないわ。でも…私はあなたたちを傷つけたくないの。見逃してはくれないの?」
「それも考えたわ…でもやっぱり、掟は守らないと」
そう言って、零は2人の方に手を掲げた。続いて錬も掲げる。
でも、昴はやらなかった。
「昴!?どういうつもり?」
「俺…無理だよ」
「どうしてだよ!?堕天は狩るのが僕らの仕事でもあるだろう?」
昴は椎名と浜崎の前に、2人を守るようにして立った。
まさか味方に立つとは思っていなかったのだろう、驚いた顔をしていた。
「ごめん、2人とも。俺、椎名と浜崎は封印すべきではないと思うんだ。ドリューも夢で言ってたんだよ」
「ドリュー…?」
浜崎が呟く。
「昴、あなた…私達にたてつくというのね?」
「足掻いたところで負けることなんて目に見えてるだろう?」
昴は魔法陣を出現させた。
「ラルフ…!!やめて」
椎名が引き止めようとする。
「浜崎、エチェ姫を止めてくれ。ここは俺が零達を止めさせる」
「分かった」
浜崎は椎名を抱き寄せた。
「零、錬。どうして2人を封印しようとするんだ?あいつらが俺達にしたことは、封印するまでのことじゃないだろう」
「そんなの、あの2人が堕天だからに決まってるじゃない」
「右に同じだよ。逆に聞くけど、どうして昴はそんな2人を庇うんだい?」
「罪を犯してない人を守るのは、そんなにいけないことなのか?2人の愛を守ろうとするのは、そんなに罪なのか?」
3人の間に緊張が生まれる。その中に入り込んだのは、意外にも浜崎だった。
「…俺達が、どうしてお前たちを最初に封印しなかったのか分かるか?」
「浜崎」
よく考えればそうだ。最初に3人を封印すれば、こんな争うことなどなかった筈。そしてそれは、椎名と浜崎なら簡単に出来ることなのだ。
「これは単なる俺達の思い上がりであって、希望なだけかも知れない。…俺達はお前らが事情をわかって知らないふりをしてくれると思った。だから、少しだけ待っていようと思ったんだ」
「…、」
「でも、もう無理なようだ」
浜崎は哀しそうに微笑った。
「俺はただただ、平穏が欲しかった。エチェ姫様と静かにいたかった、それだけなのに―…」
「イェルカ!?やめて!!」
椎名は姿を本来のものに変えイェルカの策略を止めようとした。
昴達3人は、2人がお互いに何をしようとしているのかわからず、ただ見ているしかなかった。自分たちが狙われているとも知らずに。
「アルセレ!!」
「…ぐっ……」
浜崎はここにきてようやく、静かな怒りに我を忘れていたことに気づいた。
昴は我が目を疑った。
零は驚きに当初の目的を忘れていた。
錬は思わず瞠目した。
天音は声も出せなかった。
「イ、…イェルカ」
「エチェ姫、様…これは」
先に倒れた彼女の下へ向かったのは、昴だった。
そこに倒れ臥していたのは―…
「ドリュー!!!!」
長い赤髪を2つに結い、背中に翼を生やした少女…
まさしく、ドリューだった。
昴は逃がすまいと、電光石火の勢いで彼女の下へと走り、体を抱き寄せた。
「ドリュー!?なんで…どうしてこんな…!?」
ドリューの目は今にも閉じてしまいそうだった。
浜崎は天音と共に、2人の下へ歩み寄ってきた。
零と錬は様子を見て状況を見計らおうと、あくまで冷静だった。
「ラル…フ、ごめんね…」
「、何が…?」
久しぶりのドリューの声にラルフは一瞬、胸が締め付けられた。
ドリューがまた消えてしまいそうで、とてつもない恐怖に胸が痛かった。
ドリューは今にも息が絶えそうだった。オーラもほとんど感じられないほどに。
閉じられたまぶたが、少し震えていた。
「私、…みんなに、生きて…いて欲しい、の」
「ドリュー…」
「…普通の、暮らしは、本…当に一番幸せ、だから……」
ドリューの言葉に、ラルフの心の中の思い出という思い出がどっと頭の中に流れ込んできた。
ドリューと過ごした日々、それと対照的なドリューが城へ仕えていた間の暮らし。
その瞬間、ラルフの心にある感情が芽生えた。ラルフの下の地面に、ぽつぽつと雫
が落ち始める。声を震わせながら、ラルフは言った。それを言えばどうなるかもわかりながら…
「ドリュー、…もう喋ったらだめだ。もう十分分かったから」
ドリューの頬に一筋の涙が流れ、そこには安心したかのような優しい微笑みがあった。それはまるで聖母のようだった。
「ありが…とう」
ドリューは言った。
ラルフはそれ以上、何も言えなかった。悲しくて、辛くて、悔しくて、涙を流すしかなかった。胸がつぶれてしまいそうだった。
「ドリュー…っ」
ドリューはもう起きてはいなかったけれど、ラルフは最後に別れを誓った。
「ドリュー、また生まれ変わるまで俺は待ってるから…」
ドリューの顔に落ちたラルフの影に、大粒の涙が落ちた。
そして、ラルフはそっと、三度目のキスをした。もう永遠にすることのない、これが最後の誓いだった。
しばらく、ラルフはそのままでいた。
「…っ、…」
ぼろぼろ涙を流しながらドリューから顔を上げ、苦悶に満ちた声にならない叫びをあげた。
流れ落ちた涙は、ドリューの顔や服にしみをつくった。
ラルフの胸の中に在るのは、ドリューの輝くような笑顔だけだった。
「…ドリュー、ドリュー…」
ラルフはもう動かぬドリューの体を、これ以上ないほど力強く抱きしめた。
強く、強く―…
…………………………
ラルフはドリューを抱きしめ、立ち上がった。そして4人に向かって毅然として言った。
「…俺は、エンジェルの掟なんて気にしない。」
「じゃあ私達がもし椎名さんと浜崎を狩ろうとしたら、昴はどうするの?」
「全力で止めてみせる」
昴の意志は堅かった。
零と錬は顔を見合わせて大きくため息をついた。
「…わかったわ。私達も正直、今の話を聞いて戸惑ってるの。本当に、この人達を殺していいのかって…」
すると浜崎は言った。
「2人が何もしなければ、僕らも何もしない。」
「…わかったわ。約束よ。その代わり何かあったら、その時はためらいなくあなた達を殺す。いいわね」
そうして、椎名と浜崎はこの街にいるようになった。
昴は思う。
何が一番大切かなんて、人によって全く違うのは当たり前だ。
でも、
"日常"は少なくとも、すべての人にとって大切なものなんだ。
だからドリューの分も、
俺は"日常"を大切にして過ごそうと思う。
fin.
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