「ぼくが死んでしまってから、もう40年が経ちます。」

雲がぽっかりと和やかに浮かぶ青空の中、その声は現れた。声の主は見えない。それどころか、自分の姿さえも。
その声は女のそれに思えたが、幼い言葉遣いから、変声期を迎えていない男の子であるのだとわかった。

「ぼくにとってのそれは、恐怖以外の何物でもありませんでした。…その時までは。」

ぼくは、S県の海に面する街で育ちました。
…そうです、ここです。
ぼくは近所の海へ行くことが大好きで、小さい頃には服を身につけたまま沖合まで泳ぎ、溺れて死にそうになったこともあるほどです。
ただ、何もかもが健康というわけではありませんでした。1つだけ、人間にとって必要なものがありませんでした。
ぼくには、言語障害があったのです。
そのおかげで、周りには知能障害であると思われ、異国の人を見るような目で見られていました。

そんな中、1人だけ、本当の友達になってくれた男の子がいました。名前をXと言います。彼はひとりぼっちだったぼくに、まるで家族のように接してくれました。ぼくにとって、彼はまばゆい光だったのです。
私とは違い、彼は大柄で、運動も得意で、いろんな人に一目置かれる存在でした。なぜぼくと一緒にいてくれるのか、とても不思議でした。
そして彼がたくさん誉めてくれたのは、私の描いた絵でした。
私は幼い頃から、絵を描くこと…具体的に言うと、海や木々といった自然を描くのが大好きでした。
理由は、ただ好きだからというわけではありませんでした。先ほど言いましたように、私は言葉が話せません。ですから言葉で表せないこ
とを絵で、筆で表すことで、ぼくの感じたことを皆に伝えたかったのです。ぼくにとって、筆や絵は言葉でした。
その中でも海で起こる波は、見る度に姿形を微妙に変えていて、生命力に溢れていました。
そんな海が、私は大好きでした。

ある年の9月のことです。ぼくの住む地方に、台風が来襲しました。
部屋の窓から外を見ると、いつもの人でにぎやかな街はなく、ただただ、雨風がごうごうと狂ったように暴れまわっています。部屋の机の上には懐中電灯が置かれ、いつ停電しても大丈夫なようにしてありました。
父と母は食い入るようにテレビの天気予報を見て、時々溜め息をついていました。
でも逆にぼくは、外に出たい気持ちでいっぱいでした。海へ行きたかったのです。嵐の荒れ狂う海を、生命力の奔流のような海を、この目で見て、描き留めたかったのです。

しばらくして、ふと、スイッチが切れたように雨風が止み、真っ青な空と静寂が訪れました。窓から顔を出すと、そよ風が時々吹き付けます。
現実味がないほど、平穏なものでした。

またしばらく外を見ていると、道の端からXの姿が見え、ぼくは家の外へ出ました。道のあちらこちらに、まだ若緑色の葉が散らばっています。
Xにどこへ行くのかジェスチャーで問うと、ちょっと海を見に行くんだ、と返ってきました。
ぼくは先程まで自分が海へ行きたかったのを思い出し、Xについていくことにしました。
「ちょっとでも風が吹いてきたら、すぐ家に戻るんだよ」とXは言いました。

家から二百メートルほど歩いたところに海があります。ぼくの背丈ほどの防波堤があり、ぼくたちは階段を上って海岸へ出ました。毎日のように海岸に来ていたので、このあたりの海のことならもうなんでも知っていました。
しかし、この暴風雨の束の間の休みでは、明らかにいつもと違う、知らない海でした。
砂浜に横切る波の白い線は、いつもより遠くにあります。音は、遥か遠くの海の波打つ音しか聞こえません。
ぼくたちは、何とも言えない何かを失ったような、がらんとした海をしばらく見つめていました。いつの間に来ていたぼくの犬も、お座りをして海を見ていました。

それからぼくたちは防波堤を降り、波打ち際にある漂流物を調べてみました。家具やおもちゃ、他にも得体の知れないものが、廃れた店先のように散乱していました。
すると、ぼくの目に、あるものが飛び込んできました。
それは、一枚の絵です。ぼくが両手を広げてやっと持てるほども大きさがあります。
ぼくは今、絵と言いましたが、実際、それは絵といえるのかどうか、微妙なものでした。白いキャンパスに、波の奔流そのものが描かれていたからです。
はたから見ると、それは落書きにしか見えないかもしれません。使われているのは、黒と青と、そしてほんの少しの白でしょう。ぼくはしかし、そんな三色のみの世界から、想像を絶する生命力、存在感を感じました。所々波によって汚れたりしている所がありましたが、それすら絵の一部に溶けていると感じるような太々と荒々しい筆跡からは、尽くことのないエネルギーがあります。龍がその絵の中でのた打っているような、そんな気がしました。
時が経つのも忘れ、気がつくとXは防波堤の方にいました。
「危ないぞ。波が来るぞ。」
Xの今にも張り裂けそうな切迫した声が、ぼくを我に返らせます。自分に大きな影が落ちるのが見え、後ろを見ると、ビルのような高い波が、とぐろを巻いてぼくを今にも襲おうとしていました。
本来ならば、本能的に逃げるのが、人間の理というものです。しかしぼくは、あろうことか波に見惚れていました。自分が今持っている絵のような、生命力に溢れた波だったからです。自分があの波にさらわれ、呑み込まれたなら、ぼくもあの波になれるだろうか、と思ったのです。だから、ぼくはなぜXが危ないと言ったのか疑問に思え、Xを凝視しました。
その後、Xの悲痛な顔を見て、ぼくはやっと正気に戻りました。本能を取り戻し、藁にも縋る思いで後ろを振り向き、逃げようとしました。後ろから、あの波が、やってきます。ぼくは先ほどの自分を恨みました。今や、波はただの獰猛な怪物です。
怪物はぼくを現実から切り離すように、ぼくを包み込みました。いや、そんな優しいものではありません。まさにかぶりついたのです。荒れ狂う波の中、ぼくは為す術もなく、かき乱されました。もうどちらが上かなんてわかりません。時々、海岸に打ち上げられていたような家具がぼくに打ちつけます。
しばらく渦に揉まれていると、ぐっと体が持ち上げられるように、波がその鎌首を持ち上げました。ぼくはその猛威の中、恐怖に、孤独に怯えていました。目の前にあるのが、死であるとわかりきっていたからです。心臓に、そのまま氷を入れられたように、心がぐっと冷えていきます。
するといきなり、ぼくは空気の中に放り込まれました。何が起こったかわかりませんでした。でも目の前にはXがいました。心臓が、嬉しさにきゅっと縮みます。ぼくはたった今、孤独から解放されたのです。
ぼくはXに、手をさしのべました。Xはぼくの手を掴んでくれると、絶対の確信がぼくの中にはありました。
しかし次の瞬間、ぼくはまた、怪物の中に呑み込まれました。
ふと、その腹の中の光景に、既視感を覚えました。それは、さっき海岸で見た、あの絵でした。波の流れや渦の暗さ、何から何までそのままだったのです。そうか、そうだったのかーー

ぼくは上から押し寄せる波によって、その渦の奥深くに吸い込まれていきます。
そして、そのまま、ぼくの意識はゆっくりと離れていきました。
「ぼくにとって、それ…つまり死は、今では死後の世界、ここで生きるためのエネルギーとなりました。それがなければ、こうして言葉だって発せませんでしたから」

少年は嬉しそうに言った。
空が蒼から、茜に変わりつつある。

「思えば、その絵は、ぼくの道標となっていたのだと思います。生きるが死ぬか。あの時、エネルギーの奔流だと思ったから、ぼくは死んでしまったのでしょう。憧れ、理想を感じてしまった。あるいは、単に不気味な絵と思っていたのなら、Xと一緒に生きていたかもしれません。」

その言葉の裏には、懐古の思いが込められている。

「人生、人の生きる道には、そのような道標がたくさんあるのでしょうね。」